冷たく澄んだ空気と月の輪郭

空気の澄んだ寒い夜、ふと空を見上げるとそこには満月があった。月や雲の輪郭がくっきりとしていて、まるで絵のような空だった。星が瞬くのが肉眼で見えた。たくさんの曖昧さを含んだ夜の空に、あんな小さな星たちが明瞭にその存在感を募らせていた。その景色は、一度見上げるとしばらく足を止めて見入ってしまうほど美しかった。ふだんの月や雲や星たちはこういう風には見えない。僕と月のあいだには、おそらく塵や街のネオンの光などが介在していて、本来のすがたを見ていなかったんだろう。自然のそのままのすがたは、これほどまでに人のこころを満たし、揺り動かす力があるのか。
 これからだんだんと寒くなってくるが、少し余分めに上着を着て、夜、外に出てみようと思う。月や雲や星たちを見上げるのは冬のひとつの楽しみになりそうだ。

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群れる電球とその存在感について

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 僕たちは1万6千個の電球を天井に吊るした。数というのは時に大きな存在感を持つ。数字としての数ではなく、実際にそのものが群れをなすことによって、個々の存在以上の何かが生じてくる。そのようにして大量の電球たちは、電球という枠を超えた何か別の力を持っていた。森は木が集まったものだが、木は森ではない。木と森のあいだに数以上の何かが存在する。森には、一本の木では表現できない独自のフィールドと雰囲気を持っている。しかし、木がないと森はその雰囲気を表現することはできない。

 大量の電球はまさしくその雰囲気を表現するために存在していた。個々の電球としての意味はほとんどない。けれどもそれらの“数”そのものが表現だった。

 この文章は一本の木である。その一本に、木としての意味以上の何かを求めても得られるものはない。けれどもそれを積み重ねることによって、ある種のフィールドが作られ、雰囲気が生じ、それが表現になっていく。それは磁場を持った森のように。

 
 ひとつの電球は、一本の木は、ひとつの文章は、広大で美しい風景のパズルのピースなのだ。

 

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音楽市場に出店してきました

18日にAZホールで行われた「音楽市場」に出店してきました。
ライブハウスでの出店は初めて。

出演する5組のアーティストはみんな、幼なじみだったり、昔のバンド仲間だったりと
何かしらつながりのある人ばかりだったので、
お客さんの方もどこかアットホームな感じを受けました。
パンクロックみたいな音楽なんだけど、お客さんの中には子供だったり、
お年を召された人もちらほら見えました。

最後のアンコールの時に、主催者兼出演者のジョージさんに
舞台に上がれと言われたときはびっくりしました。
来年呼ばれたときはぜひ舞台に上がりたいと思います。


一応写真を撮ったのですが、
またまた携帯が壊れてしまい、写真が読み込めませんでした…。

次の出店は、
11月2日のココマルシェ4th. http://pompomindy.fc2web.com/coco-pege/coco-malche.htm
11月15日の「和来市」 http://mixi.jp/view_community.pl?id=1915075
です。

興味のある人はぜひ!

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月は音のない音楽を奏で——

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古い商店街の上に月が浮かんでいた。
区切られた黒い空からこちらを見ていた。
満月ではないその月は、
不完全さについて僕に語った。
その不完全さはただ単に完全ではないという意味を超えて、
何か別の特別な雰囲気を持っていた。
物静けさのなかに流れる無音の音楽のようだ。
それらは無音の音としてしっかりと僕の中で響いた。
そのようにして月は僕に不完全さについて語ったのだ。
月が語るのをやめてもその無音の音は響き続けた。
月が語ったある種の不完全さは、
どうやら僕の中にもあったみたいだ。

月は満ちる。
それでも音のない音楽は続く。
月は陰る。
それでも音のない音楽は続く。

人の生のように。

あるいはそれは、不完全という言葉さえ必要ないのかもしれない。
「人は不完全だ」と言葉にしてしまうと、
月が語ろうとしていた“何か”は一瞬にして消えてしまう。
それらは言葉では語り得ない何かだ。
物語でしか語り得ない何かだ。

古い商店街の上に月が浮かんでいた。
満月ではないその月は、
音のない音楽を静かに奏でていた。

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キンモクセイの香り

 アパートの隣りに立っているキンモクセイの樹に花が咲き、懐かしい香りが漂ってきました。関西の実家のおばあちゃんの家の裏にもキンモクセイの樹がありました。子供の頃その樹の前を通るといい匂いがした記憶が残っています。背の高い樹なので、小さい子供にとってはオレンジ色の花よりも、その香りの方が印象に残るのです。
 小さい頃は季節ごとに咲いていく植物たちにそれほど関心を持ちませんでしたが、ひとりで暮らすようになり、意識を周りの樹々たちに向けられるほどの気持ちの余裕がでてきました。それまでは自分のことで精一杯だったと思います。今でもときどき自分しか見れないようになってしまうときもありますが……。
 そんなとき、このキンモクセイのように季節を感じさせてくれる身近な植物があると、心の迷路からすっと解放されます。
 キンモクセイが教えてくれた秋の訪れは、僕に小さな幸せを小さな変化を届けてくれました。

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ONE EARTHに出店してきました

報告遅くなりました…。

9月23日に立山で行われた「ONE EARTH」に出店してきました。
ときどき小雨が降るような雲行きだったけど、
朝から足を運んでくれた人もたくさんいて、
にぎやかな立山山麓でした。
立山は本当にいい場所ですね。
お祭りの原点のようなのんびりしてて平和で幸せいっぱいの空気がありました。
例のごとく携帯がないので、友達がとった写真をUPします。

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夜はキャンドルでライトアップされ幻想的な世界でした。
ライブのラストを飾るもんちゃんとhouさんの演奏、とてもよかったです。
ゲストのotoさんのギターもしびれました。
もんちゃんの独特な世界がつぼにハマり、最後は笑いが止まりませんでした。
音楽ライブで笑いが止まらないとは初めてかも…。

ONE EARTHはとても雰囲気のある素敵なイベントでした。
来年もぜひ参加したい!

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竹とうろう祭りに出店して来ました

昨日(9月21日)に行われた竹とうろう祭りに出店してきました。

例によって携帯をなくしているので写真が撮れてません…。
スミマセン……。

魚釣りや、竹細工のワークショップなどもあり、子供たちがいっぱい!
地元の人もたくさん来られたようです。
このイベントは無料とあって、たくさんの家族連れでにぎわっていました。


明日は富山で行われる「ONE EARTH」というイベントに出店してきます。
興味がある人はぜひどうぞ!

http://www.tateyamasun69festival.com/

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枝葉と幹のはなし

世界を旅してまわっている女性に会った。
彼女はヨーロッパ、アジア、オーストラリアなどを一人で何年もかけてまわっていた。
昔、僕があこがれていた生活だ。
僕も世界中を旅してみたいと思っていた。
その手始めとして自転車で日本一周したわけだけれども、
そこで感じたことは、何か一本筋を通さなければならないということだった。

その頃の僕はやりたいことがたくさんあった。
そういったものをひとつづつ体験して学んで成長したいと思っていた。
そんなとき、僕に一本筋を通せと教えてくれたのは陶芸家の先生だった。

「お前は枝葉ばかり見ている。
幹が無く、枝葉ばかりのばしているといつかは倒れる。
まず一本太い幹を立てなさい。それを軸にしなさい。
そしてそこからいろんな枝葉をのばせばいいのだ。
だからまずひとつを選びなさい」

その頃の僕は旅に夢中だったので、旅は一本の幹になると思っていた。
でも僕にとって旅は幹にはなり得なかった。
旅が幹として値しないという意味ではない。
あくまでも“僕にとって”という意味だ。

僕は自分の中にある枝葉をひとつずつ落としていった。
そして最後にひとつだけ幹になり得る筋が残った。

自分が通すべき筋ははじめから僕の中にあった。

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正しさと甘え

やまうとで久しぶりに友人と再会した。
彼女は僕が18の時に兵庫で会い、20の時に沖縄で会い、21の時に大阪で会った。
そして僕が22才になった今、滋賀でまた再会した。すべてが偶然だ。会うたびに隣りにいる男性が変わっている。来年はどこの県で会うのだろう。

彼女は週1でカフェをやっていてそれ以外は障害者施設で働いている。
僕も今年の春くらいまで障害者施設で(調理補助だけれども)お世話になっていた。
なので障害者施設の話で盛り上がった。

障害者の親は金持ちが多いという不思議な事実は、大阪でも同じなようだ。どういうわけか、お金持ちの家庭に障害者が生まれる可能性が高いのだ。あと、障害者と接するたいへんさもあるけど、一番たいへんなのは職員同士の関係だというのもうちと同じだった。
彼女はそういう介護の場の出来事を「“人とどう接するか”を通して自分が見えてくる」と言った。僕もそう思う。

一般的に人は障害者と聞くとクリーンなイメージを持つ。
どこかが不自由な分、欲求が少ないようなイメージがあるのだ。
けれども実際は逆にほとんどの人が甘えたがりやの子供だ。
障害を持っているのでたいていの人は必要以上に甘やかされて育っている。
中には努力家の子もいるが、たいていの人は本当に甘えが強い。
歩けていた子が楽だからといって車いすに乗り出して歩けなくなったり、
自分でできることを人にやってもらおうといろんなものを要求してくる。

そして一番ショックだったのが、彼らの性欲だった。
当たり前の話だけれども、一般人と同じく彼らにも性欲がある。
けれども、彼らにはセックスができる機会はほとんどない。
知り合いの女性が一度ボランティアとして障害者施設で働いたとき、男性の利用者に後ろから抱きつかれたり、性的な接触が多かったそうだ。
友人も利用者の一人に告白されて緩やかに断ったら、ビルの屋上から「自殺しそう」と連絡があったりしたそうだ。
もちろん僕に対してもそういうアプローチはあった。話を聞いてあげることはできても、そういう欲求を満たしてあげることは僕にはできない。
世の中には障害者対象のセックスボランティアというものまで存在するそうだ。
障害者同士の強姦の話も聞いた。

その他にも、この世界にはいろんな微妙なものごとがたくさんある。

彼らを甘やかさない、というのは最低限の心持ちだけれども、
それを前提として彼らに対して何ができるかというのが大きな問題になってくる。
正しさを強要することは、彼らを甘やかすのと同じくらいたやすい。

結局行き着く結論は、その言動に愛があるかということだと思う。

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やまうとの写真UPします

やまうとの写真UPします。

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やまうとのメインステージ。
人が集まってます。


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商店街の様子。



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テントサイトは杉林の中でした。









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雨が降ると地面は泥沼状態…
長靴を持っていってて正解でした。
半分くらいの人が裸足で歩いてました。
子供たちは泥遊びができて楽しそうでした。






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地元のおばあさん。
街からかなり遠いところに住んでいます。

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