やまうとで久しぶりに友人と再会した。
彼女は僕が18の時に兵庫で会い、20の時に沖縄で会い、21の時に大阪で会った。
そして僕が22才になった今、滋賀でまた再会した。すべてが偶然だ。会うたびに隣りにいる男性が変わっている。来年はどこの県で会うのだろう。
彼女は週1でカフェをやっていてそれ以外は障害者施設で働いている。
僕も今年の春くらいまで障害者施設で(調理補助だけれども)お世話になっていた。
なので障害者施設の話で盛り上がった。
障害者の親は金持ちが多いという不思議な事実は、大阪でも同じなようだ。どういうわけか、お金持ちの家庭に障害者が生まれる可能性が高いのだ。あと、障害者と接するたいへんさもあるけど、一番たいへんなのは職員同士の関係だというのもうちと同じだった。
彼女はそういう介護の場の出来事を「“人とどう接するか”を通して自分が見えてくる」と言った。僕もそう思う。
一般的に人は障害者と聞くとクリーンなイメージを持つ。
どこかが不自由な分、欲求が少ないようなイメージがあるのだ。
けれども実際は逆にほとんどの人が甘えたがりやの子供だ。
障害を持っているのでたいていの人は必要以上に甘やかされて育っている。
中には努力家の子もいるが、たいていの人は本当に甘えが強い。
歩けていた子が楽だからといって車いすに乗り出して歩けなくなったり、
自分でできることを人にやってもらおうといろんなものを要求してくる。
そして一番ショックだったのが、彼らの性欲だった。
当たり前の話だけれども、一般人と同じく彼らにも性欲がある。
けれども、彼らにはセックスができる機会はほとんどない。
知り合いの女性が一度ボランティアとして障害者施設で働いたとき、男性の利用者に後ろから抱きつかれたり、性的な接触が多かったそうだ。
友人も利用者の一人に告白されて緩やかに断ったら、ビルの屋上から「自殺しそう」と連絡があったりしたそうだ。
もちろん僕に対してもそういうアプローチはあった。話を聞いてあげることはできても、そういう欲求を満たしてあげることは僕にはできない。
世の中には障害者対象のセックスボランティアというものまで存在するそうだ。
障害者同士の強姦の話も聞いた。
その他にも、この世界にはいろんな微妙なものごとがたくさんある。
彼らを甘やかさない、というのは最低限の心持ちだけれども、
それを前提として彼らに対して何ができるかというのが大きな問題になってくる。
正しさを強要することは、彼らを甘やかすのと同じくらいたやすい。
結局行き着く結論は、その言動に愛があるかということだと思う。
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