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2009年4月

アースデイ富山に出店してきました

4月26日(日)アースデイ富山に出店してきました。
朝から予報どおりの雨rain
金沢から富山に向かう途中少し晴れ間も見えていたので、もしかしたら晴れるかも…という甘い期待が見事に外れ、現地で予報どおりの雨と想像以上の風に打ちのめされましたbearing
タープは飛びそうになるわ、看板の文字が雨で流れちゃうわで(耐水性の絵の具で書いたつもりがポスターカラーだった…○| ̄|_)大変でした。

それでも午後から雨がやみ、少し天気が回復してきてちらほらお客さんも来てくれました。
カレーの看板の500円の文字のゼロがひとつ雨で消えかかっていて、お客さんから「どれくらいの量なんですか?ほんとうに50円なんですか?」と質問され、それをネタにお客さんと笑いあっていました。50円はあり得ないですよね。

後半、スイーツがあまりそうだったので小さくきって通り過ぎるお客さんに試食してもらいました。それが意外と楽しく、いつの間にか商売を忘れて「どれだけ食べてもらえるか」というテーマが自分のなかに出来上がり、目に映る人を片っ端から声をかけ食べてもらいました。最後の富山大学のスタッフのみんなの遠慮のない食べっぷりが気持ちよかった!

今回の天候は、アースデイ富山に4年間欠かさず来ているという人が「一番ひどかった」というくらい悪天候でした。それでもなんとか赤字にならずにすみました。それよりなにより、とっても楽しかったsign01

次の出店は5月2日(土)花とハーブ ペザンで行われる「第2回手作りマーケット」です。
次回は、ぴーすけ(カフェカー)で出店します。がんばるぞーrock

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アースデイ石川に出店してきました

4月19日(日)に湯涌創作の森で行われたアースデイ石川に参加してきました。
当日はいい天気で暑かったぁcoldsweats02
人もたくさん集まって、カレーもスイーツも完売。
来てくれた皆さん、ありがとうございました。

今回はぴーすけ(カフェカー)ではなく、タープを使って出店しました。
(終り際の気の抜けたお店の写真を載せます)

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来週の日曜日(4月26日)にはアースデイ富山に出店します。
詳細は↓↓

http://earthday-toyama.org/

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“チャレンジ”

自分の成長に大いに役立ったタロットカードがある。
それがOSHOトランスフォーメーションタロットだ。
一枚一枚物語になっていて、とても面白いしためになる。
今日引いた“チャレンジ”の物語を写してみる。

 少しの苦闘は必ず必要なことです。私たちは嵐——稲妻、雷鳴、そして悲しみ——を経験することで、それと同時に喜びと幸せを経験することでも、より豊かになっていきます。

 私は古くからのたとえ話を聞いたことがある——非常に古いに違いない。というのも、そのころは神はよく地上に住んでいたからだ……。

 ある日、ひとりの男が、年老いた農夫が来てこう言った。「いいですか、あなたは神かもしれないし、世界を創ったかもしれない。でも、私はひとつのことだけはあなたに言わなければなりません、あなたは農夫ではないのです。あなたは農業のいろはさえ知らないのです。少しは学んだらどうですか」
神は言った。「どうすればいいのかね?」
農夫は言った。「私に一年という時間をください、そしてものごとをただ私の言う通りにしてください。それでどうなるか見てほしいのです。貧困はすっかりなくなっているでしょう!」
 神は喜んでそうした。そしてその農夫には一年が与えられた。当然、彼はもっとも良いものを求めた。彼はもっとも良いこと——雷鳴はない、強い風はない、穀物に危険はないといったことしか与えなかった。あらゆることが快適で、心地よかったので、彼はとても幸せだった。小麦はほんとうに高く育っていた!太陽が欲しいときには、太陽が照った。雨が欲しいときには、雨が降った。しかも彼の望みに応じて。この年はすべてに間違いがなかった。数学的に正しかった。
 小麦は非常に背高く育っていた……農夫はよく神のところに行って、こう言った。「見てください!今度の穀物は、たとえ人びとがこれから先十年は働かなくても充分なほどになるでしょう!」
 だが穀物が取り入れられると、なかには小麦がなかった。農夫は驚いた。彼は神に尋ねた。「どうしたのでしょう?何がうまくいかなかったのでしょう?」
神は言った。「チャレンジがなかったからだ。争いがなかった、あつれきがなかったからだ。お前が悪いものをすべて避けたために小麦は能力がないままだった。少しの争いは必ず必要なものだ。嵐は必要だ。雷鳴、稲妻は必要だ。彼らは小麦のなかの魂を揺り起こす。」
 このたとえ話には途方もない価値がある。もしあなたが幸せで、幸せで、ただ幸せだけだったら、幸せはすべての意味を失う。それはまるで、誰かが白い壁に白いチョークで書いているようなことになるだろう——彼は書き続けることはできる、だがけっして誰もそれを読むことはできないだろう。
 夜は昼と同じだけ必要だ。そして悲しみの日々は、幸せの日々と同じように欠かすことはできない。これを私は理解と呼ぶ。そして、徐々に徐々に、あなたが生のリズムを、二次元性のリズムを、両極性のリズムを見れば見るほど、それだけあなたは求めるのをやめる、選ぶのをやめる。あなたは秘密を見いだしたのだ!
 この秘密とともに生きることだ。そうすればあなたは突然驚くだろう。生の祝福はなんと偉大なのだろう!瞬間ごとに、いかに多くがあなたに注がれていることだろう!だがあなたは、自分の期待のなかで、自分の小さな取るに足りない欲望のなかでずっと生きている。そして物事があなたの欲望にかなっていなかったら、あなたは惨めだ。
 あなたがものごとの自然に従うときは、どのような影も投げかけられてはいない。そのときには、悲しみすらも輝いている。悲しみがこないというのではない——それはやってくる——だがそれはあなたの敵ではない。あなたはその友達になる。その必要性がわかるからだ。あなたはその優美さを見ることができる。そしてあなたは、なぜそれがそこにあるのか、そしてなぜそれが必要なのか、見ることができる。そしてそれなしでは、あなたはもっと少ないだろう、もっと多くはない。

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ふさかけの存在感について

 普段見慣れているささいなものでもきちんとした名前を持っている。
僕をそう思わせたものは「ふさかけ」だった。
ふさかけとは、カーテンを止めるために窓の両側についている金具の名前。T字のような形をしたあれだ。僕はその名前を知らなかった。

 アパートに引っ越した時、カーテンを止める金具がついていなくて買いに行った。そこでその金具に名前があることを知った。それまでその金具の名前なんて気にもかけなかった。その金具はいくら見慣れたものでも日常生活で話題としてのぼるようなことはなかったし、すり減ることも、なくしたりすることもなくただそこに在った。でもちゃんと名前を持っているのだ。ねじやビスだって小さくてもりっぱな名前があるようにふさかけにだって名前がある。

 そんな小さな金具に、小さくても確かにそこにある存在感を見せつけられた。ここに形を為して存在することの不思議さ、その神秘に大小はないということを教えられたようだった。

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