心に残った言葉たち

90秒後の感情のゆくえ

前に紹介した「奇跡の脳」という本で興味深い話がありました。

人は怒ると大脳辺縁系のプログラムが作動して化学物質が身体に満ちあふれるんだけれども、その反応は全て90秒以内で終わるんだそうです。

90秒を過ぎても怒っている人は、その人が「怒ること」を選択しているから。

私たちが怒り続けるのは、怒りの化学物質が出続けるように無意識に選択しているみたいなんです。そういえば無邪気な子どもたちは、怒ったり泣いたりするときは全一的に感情を表に出しますが、すばらくするとけろっとして何事もなかったかのような顔で遊んでたりしますよね。

あれはとても自然な反応だったようです。

無邪気な大人ってあんまりいないですよね。

大人である僕たちも、子どものように自ら怒りを選択せず、無邪気に生きたいと思いました。

奇跡の脳

      
奇跡の脳

著者:ジル・ボルト テイラー

奇跡の脳

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知識と知恵の違い

言葉がわからなかったら国語辞典をひくように、真理についてわからなかったら英知の辞典という本をひく。それはインドの神秘家バグワン・シュリ・ラジニーシ(または和尚、OSHO)という人の言葉が載っている本だ。

 何か自分の心の中で引っ掛かったり、理解したい事柄が出てきた時にこれをひくと、かならず腑に落ちる答えが出てくる。目次を目で追って自分の心に引っ掛かる単語のページを読む。これを何回かくり返すと必ずスッキリする。今日もその現象があった。
 今日のすっきりした項目は「知恵」。少し要約して書いてみます。

 「知識は他人からの借り物だが、知恵はあなたのなかに育つものだ。知恵は内なるものだが、知識は外側のものだ。知識は外側からやってきて、あなたの表面にまつわりつき、大きなプライドを与えて、あなたを閉じたままに、理解から遥かに遠いところにおく。理解を学ぶことは出来ない。誰もあなたにそれを教えられない。…あなたは自らの存在の内側を探し求めなければならない。…あなた自身の体験の味わいが知恵だ。知恵は体験であって、知識ではない。」

“あなた自身の体験の味わいが知恵だ。”
今日、すごくエネルギーをもらった一言でした。

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オイディプス王・アンティゴネ

ソポクレスの「オイディプス王・アンティゴネ」を読みました。

ソポクレスは古代ギリシャ三大悲劇詩人の一人。
紀元前の大昔の人が書いた本をこうして今読めるというのはとてもすごいことだと思います。

人間の文学性って紀元前から変わってないんじゃないかとふと思いました。

文学って時間が経ったからといって発展したり、進化したりするものじゃないのかもしれない。

なにかこう人間の中に普遍的にあるもので、

ただその時代によって形が変わり続けるけれども

本質的にはいつも同じ。ただ人間の中にあるもの。

人間の文学性がそんな風だったらいいなと思います。


戯曲は久しぶりに読んだんだけれど、やっぱり戯曲に出てくるセリフは戯曲的でいい感じですね(当たり前だ)。

 たとえば、アンティゴネとイスメネが言い争うシーン。


アンティゴネ ああ誰にでも言うがいい!黙っていれば、私には一層あなたが憎くなる、それを誰にも言わずにいようものなら。

イスメネ あなたの心はそうして火のように燃え上がるのね、氷のような冷たいものに

——p115』

自分のことを「氷のように冷たいもの」と言っているイスメネがとてもクールです。



良い戯曲はひとつのセリフからたくさんのことを学べます。


アンティゴネ それでも、私は二人と愛情を分け合いましょう、が、二人の憎しみには立ち入りたくありません。

——p139

この正直さや、

 「神が禍いに導こうと思う人があるなら、その人の目には、悪もまた善に映る、これでよしと思える間は、ほんの一瞬」——p144

この善悪感に対する批判がとってもいいです。


 いや、それどころか、たとえその人がすでに賢者であるにしても、さらに多くを学ぼうとし、自分の説を押し通そうとせず、いつ折れたらよいかを知ることは、決して恥ずべきことではありません。たとえば、冬場、早瀬の縁に生えた樹の枝は、流れに応じてなびくものほど、小枝まで助かりましょうが、首を固くして流れに逆らっている樹は、根こそぎなぎ倒されてしまうのを、父上もよく見てご存知でしょう?

——p149

 この文章はちょっとドキッとしました。自分は今“首を固くして流れに逆らっている樹”かもしれない。なぜそう思うのか原因は全くわからないんだけれど、ただそう感じました。

 でも、いつ折れればいいんだろう?

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人間にとって経済とは何か

「人間にとって経済とは何か」著:飯田経夫 を読みました。
読んでみて気づいたのが、過去に1回読んだことがあるということw
それでも2回読む価値はある本だと思います。
まっちゃんのためにメモを載せます。

 日本人の優しさ 「森永ヒ素ミルク事件」
 『そのとき氏の心をいたく打ったのは、ヒ素ミルクの犠牲者である赤ちゃんの母親たちの態度であった。母親たちは、森永乳業やその社長を恨みに思うどころか、ひたすら自分を責めていたというのである。
「母乳のでない女が母親になったのが間違いだった」
「子供がミルクを嫌がるからと、重湯に切り替えた人もいたのに……。この子に無理やり毒を飲ませたのは私だ」
「もう少しカネを払えば安全なミルクが買えたのに、安物を買い与えた罰が当たったのだ」
…日本人…には、自分に責任のないことまで、ひたすら自分の責任と思い込む心根のやさしさがある。』——p47

 それは優しさなのだろうか?

『くり返すが、今の日本経済は「豊かさ」そのものだからである。たとえばごく普通の日本人がデパートを隅から隅まで見てまわっても、今すぐにでも買いたいような魅力ある商品は、さっぱり見当たらない。
 お腹いっぱい食べて、満腹状態の消費者に力ずくで無理に食べ物を食べさせようとするような所業は、率直に言って不見識である。念のためにいえば、地球の資源は余っているのではなく、基本的には足りないのである。』——p69


『科学史学者の村上陽一郎氏は、以前ある雑誌で、文化が「文明」になり得る「必要条件」は、ひとつは「自然を攻撃対象」として思うままに「変造し管理する」ことであり、もうひとつは「それが他の文化に示す攻撃性だ」と語っていた。ひとつの文化が、他の文化の中に併存するだけの意志と社会的権力装置(たとえば技術、軍事力、警察力、教育制度など)を用意し、実際にそれらを駆使して周辺の諸文化を自らの版図の中に収め、それを相当期間にわたって実行した時、それを「文明」と呼ぶというのである。』——p78

 
 公のために働く尊さ
『共同体のために、あるいは相互扶助をするために働くというのは、人間にとってはきわめて大切であり素朴な真理ではないか』——p87


『製造業の現場では、ブルーカラー層を中心に無断欠勤が増え、就業中もビールを飲むなど、職場の規律が乱れて、以前のようなきちんとした仕事ができなくなっていた。その割に要求だけは強く、賃金は大幅に上昇しそれが新品価格に転嫁された。…
 こうした職場の混乱は職場外にも飛び火し、道路にゴミが散乱して町並みが汚くなるとか、凶悪犯罪が増えて治安が悪化するなどの病弊いっせいに噴出したのである』——p94


 『しかし、それでは賃金を決めるのは一体何かということになる。結論を先に言えば、はなはだ抽象的で恐縮だが、それは結局のところ哲学であろう。要するに、人間なり労働者なり企業という組織なりを、その共同体の人々が「そういうものだ」と考えることにおいて他ならないのではないか』——p109


 ケインズ主義はひらの人たちを解放し「失業と上の恐怖」から救った。すると、ひらの人たちは心中の不平不満・恨みつらみを心おきなく言動に表すようになった。
 114らへん


 『要するに経済学とは何かが問われているのだが、経済学とは結局のところ「資本主義経済をどのようにみるか」という問題を考える学問である。』——p138

『経済の課題は、つきつめると、「なにをどれだけつくるか」ということである。』——p139


「比較優位」デビッド・リカード
 いまAとBという二つの国があって、それぞれ洋服とワインを生産しているとしよう。洋服一着とワイン一樽を生産するのに、A国では毎年各一人を労働力を必要とする。一方、B国では洋服に年間四人、ワインに年間二人の労働力を必要とする。この場合A国では洋服一着の対価がワイン一樽に相当するが、B国では洋服一着がワイン二樽に相当する。
 そこでもしA国が一着の洋服をBに輸出すれば、Aは二樽のワインと交換することができる。同じように、Bはワイン一樽をAに輸出すれば、洋服一着を手に入れることができる。この交換比率で見る限り、Aは洋服、Bはワインへ特化すれば国際貿易の上で優位に立つ、と言うのである。——————「人間にとって経済とは何か」p.53

 「新ポリス論」ー豊かさの次にくる社会ー
 「ポリス」とは、古代ギリシャの都市国家で、そこではダーティな仕事はすべて多数の奴隷が肩代わりし、少数の市民だけがお互いに協力して理想に近い民主政治を運営していた。
 これに対して「新しいポリス」では、かつての奴隷の仕事はすべてロボットに任せる。奴隷だった人々は市民に昇格し、古代ギリシャをしのぐ便利で快適で豊かな生活をエンジョイできる、というイメージである。
 物質的な喜びではなく、精神的な豊かさを満足できる。—————「〃」p127—次

 「アダム・スミスの『神の見えざる手』」
  ポイントは次の2つ
  ・人間のやる気の問題。自分の判断で金儲けが自由にでき、結果の責任も自分に帰し、さらに自分の努力の成果が自分に帰ってくるとき、人は熱心に行動する。
  ・市場機構(マーケットメカニズム)あるいは価格機構(プライスメカニズム)の作用の問題。経済の課題は、つきつめると「何をどれだけつくるか」ということである。その判断は、企業が市場における価格の動きを見る。

 ここでもし、政府の介入で、価格の自由な変動が妨げられれば、システムは動かなくなる。たとえば、日本の食糧管理制度で、米が余って政府の倉庫に積み上げられ、膨大な無駄が生じて米の減反が行われた事情を思い出して欲しい。それは米の需給それ自体よりも、米を作る農家の所得保証を重視した結果である。—————「〃」p141−次


 「資本主義が強いる四つの『無理』」
 ・「搾取」の無理。資本主義、市場経済は、金儲けという目的を達成するためには、他  人をとことんまで利用し、こき使う傾向がある。
 ・「過労死」の無理。「搾取」の対象は、たんに他人だけにとどまらず、時として自分  自身にまで及ぶ。金の魅力がそれほどにも蠱惑的であるためか、そうでなければ競争  がそれほどにも激烈であるかのどちらかだろう。
 ・「帝国主義的侵略」の無理。資本主義は、ただ自宅の庭先でそれをやっているだけで  はなく、頼まれもしないのにわざわざ出かけていって、他国を荒らしまわる。
 ・「地球環境破壊」の無理。

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藤原新也 「黄泉の犬」

f1さんに勧められた藤原新也の「黄泉の犬」読めました。ぴーすけをいじるのに忙しく、あまり本が読めなくて結構時間がかかってしまった……。いつものように切り抜いた文章と適当に思ったことを書きます。メモ程度なので適当に読んでください。(まとめようとするんだけどいつも後回し…)

藤原新也の書き始めはいつも気に入ってしまう。

世界は幻影(マーヤ)だという考え方がある。
インドの、ある聖者が唱えた、
過激な世界観である。
現世はもとより来世も、
聖も俗も、善も悪も、
悟りも迷妄も、
そして解脱による真我の光も、
それは幻影(マーヤ)であり、一雫の夢。
地球が燃え尽きたところから始まるように、
あらゆる価値はあらかじめ燃え尽きた
はいの上に咲く徒花(あだはな)にすぎない。
それゆえに世界はこよなく、
癒らかなのです。
私の心は、
この真実(サテイアン)の大崩壊の時代において、
その幻影説(マーヤヤーナ)にそっと寄りそう。
そして幻影(マーヤ)の海に釣り糸を垂れ、
色とりどりの魚(マーヤ)に戯れる。

しかし私がインドと日本の間で身の振りかたを迷っていた頃の経験によれば、現世か現世否定かという二者択一的な選択は、そのどちらもがよりよく生きることにはならない。
 なぜならおそらく覚醒とは幻影の半身に他ならないからだ。その二つを切り離すことはできない。ちょうど光が闇を在らしめ、やみが光を在らしめているように、不憫なことに幻影とは覚醒の、覚醒とは幻影の、互いのよき伴侶であるとさえいえる。たとえばインドにおける聖者(サドゥ)たちは幻影(俗)と覚醒(聖)の二つの岸にかかる命綱を渡り歩きながら、正気というものを保っていたように思われるのだ。——p15

 昔、「つまるところ小説(物語)はフィクションだから、もしかすると自分の一生をかける価値がないのではないか」と悩んだことがある。小説はある種の慰めにはなるけれどもそれ以上ではないのかもしれない、と。けれども、本を読んでいくうちに、というより生活をしていくうちに、自分の生活の中で読書が思っている以上に重要な位置にあることがわかってきた。結局俺が生きていく上で読書は不可欠という結論に至ったんだけれど、上記の文章を読んで昔よくこんなこと考えていたなぁと思い出した。覚醒と幻影を現実世界と精神世界と置き換えることができると思う。難しいことに、その逆もいえると思う。覚醒と幻影は精神世界と現実世界と置き換えることができる、と。もしその半身が入れ替わろうとも、戸惑うことのないよう、その全体を見れる視野と、その事実を受け入れることのできる寛容な心が欲しい。

 青年はときに理屈ではなく、動物のように全身で何かを察知し、それが自らの行動に繋がるものだ。理屈というものは肉体の熱狂が冷めた後からやってくるにすぎない。——p19

 また、見落としがちなことだが、ときにはこのような田舎の農村や漁村地帯における工業の進出がある別の意味を兼ね備えていたことを忘れてはならない。前近代の日本の基幹産業である農業や漁業システムの中では地主と小作人、網元と使用人の関係は不変である。小作人や使用人はその年季や技量に応じて生活が豊かになるわけではない。しかし能率主義の近代の合理システムはその長年の因習を打ち破ったのである。そこではすべてのものに平等の機会が与えられた。能率を上げ技量を発揮すれば、それに応じた見返りができた。田舎における工場は土地や船を所有しない貧困層にとって暗い前近代の管理システムから解き放たれる解放区として輝きを放っていたのである。いうならばそれは新しい社会の体系であり、価値であった。——p29

 キリスト教のみならず、ユダヤ教、そしてイスラム教も、つまり砂漠に発祥する宗教というものはおしなべて規範なき自然の中における人間自我の肥大、さらには誇大妄想という精神病理を秘めているものである。それは自我を自然の中にとけ込ませることに真我(解脱)を見る東洋の宗教とは逆の精神のベクトルである。ヨーロッパを訪れてみるといい。私たちは彼らがユーラシア大陸の自然を完璧なまでに制圧し、彼らが理想とする人間の自我様式に沿った都市を打ち立てているのを見る。その都市の中では人間のしもべである犬や馬はよく調教され、待ちを歩くとマロニエの木の植え具合、枝の曲がり具合までまるでギリシャ時代に人間の理想のプロポーションを作ったのと同じようによく調整されている。私たちはそのようなものをかりに西洋の美として憧憬してきた。しかしものの見方を変えればそれは人間の自我の限りなく肥大した果ての誇大妄想の産物ともいえる。
 ただ彼らはそのような誇大妄想の患者であるばかりではなく、自らの治癒者でもあった。彼らの宗教は誇大妄想的でありながら、他方、禁欲によって人間の自我の肥大を止揚すると言った両義性を持っている。——p37

 はじめこの文章を読んで少し反発を感じた。たとえそういう傾向があったとしても、ヨーロッパのすべてを誇大妄想的というのは言い過ぎなんじゃないかな?どちらにせよ俺はヨーロッパに行ったことがないのでこれ以上の言及はやめておこう。

 どんなぶざまな顔でも自分の生んだ父親の顔を穴の開くまでしっかり見てからものをいえと言いたい。そこまでぶざまになり下がった父親とは一体何だったのか。そこには父親が自分の身を何かにやつして暗黙のうちに語りかけている言葉がきっとあるはずだ。今の青年にはそういった負の状態の人間からの意味を読み取る寛容と強さというものが欠けていると思う。——p89

 この文章は正直腹が立ったけれど、これは個人的な話なので避けておく。

 それにこのことは誤解をまねく恐れがあるので注意深く語らねばならないが、私が彼にあってもようなと思ったのはインタビューで謝礼を払うと言ったことにもよる。…日本人というものはプロでもこのことを誤解している人がいて困るのだが、金というものは汚いものだと思っている馬鹿がいる。原稿やインタビューの注文用紙にくどくどと、どうでもいいようないろんな理屈が書かれていて、最後に肝心の原稿料はとくると、こんなのに限って金のことがさも下劣なことでもあるかのように全く触れていないというものがだいたい三割くらいはある。断っておくが労働に見合う適正なものであれば金というものは塩(サラリー)と同じように神聖なものである。——p90

 お金が神聖な物であるという考え方がとても新鮮だった。最近商売をはじめようと思っていろんな人にそのことを話すんだけど、そのときについつい「儲ける気はない」と言ってしまう。そしていつも「それは商売じゃない。学生の甘っちょろい夢だ」と突っ込まれるんだけれど、この儲ける気がないというのはおそらくお金というものを誤解しているせいだろう。これからその世界の厳しさと、お金の意味をもう少し学んでいけると思う。

 「火って、自然ですよね。まだるっこいというか、かったるいんです。自然というものと、僕はそういうものとは無縁に育ってきたから。だから歳食った大人が自然だ自然だって、自然が万能だっていう言い方するとカッとするというか、それじゃ自然を知らないオレらは生存の基盤のないクラゲみたいなものなのか、って言いたくなるんです」
「……そう思う」
私は静かに言った。
青年はギョッとしたようにこちらを睨んだ。
「この日本の都市に生まれた子供って皆、クラゲだよ。いや正確にはそうじゃない。自然を知っているはずの世代が子供たちから自然を奪い取り、クラゲに仕立て上げたということだ。…」——p116、117

 

 誰もが普通に行き来するような場所で薪の上にのせられた人間がどんどん燃やされる。こんなことは日本では、いや世界のどの国でも見られない。最初は布にくるまれているけどそのうちに布が燃え、裸体が露出する。火がそれをなめまわし、皮膚が焼けてしばらくすると肉の内部に火熱が充満する。人間の体の九十パーセントが水だからね。やがて人間は沸騰しはじめるんだ。裸体は膨張し、ジュウジュウ脂肪が滾り水分の沸騰する音がしはじめる。膀胱にたまっている小便がピュッと性器から吹き出したり、空をつかむように五本の指が動いたりまるで生きている人間みたいだ。焼き方が悪いとスルメみたいに起き上がってくるんで、材木で重しをしたり、頭の方はなかなか火が通らないから太い竹棒でぶち割ったりする。真っ白い脳しょうが飛び散るとそれに火が点いて花火みたいに当たりに散る。野良犬が待ってましたとばかりにウォンウォン喧嘩しながらそれを奪い合う。脳味噌って美味しいんだな。死体焼き職人は、そんなのはいつものことだから犬なんかにかまっていない。そればかりか焼け残った黒こげの足なんかをポンと蹴ったりして犬にやるのもいる。それに臭いも強烈だ。風向きが変わると煙がこちらにやってきて体を包み込む。肉や骨の焼けた強烈な臭いが鼻孔になだれこむ。スルメの焼く臭いとそっくりだった。——p124

 死体を焼くところを実際に見てみたいと強く思った。

 はじめてそんな光景を目のあたりにしたとき私は本当にこんなことってあっていいのかなって思ったんだ。こんなに何もかも丸見えになってもいいのかなって。それまで私が育った日本では人間というものはもっと後生大事なものだった。人間の命は地球より重いって言葉知ってるだろ。あれは日本赤軍によるダッカ・ハイジャック事件の際、政府が彼らの要求をのんで服役中のメンバーを解放したときに総理の福田赳夫が言った言葉だね。日本人は妙にあの言葉に納得したものだ。私はあの頃から日本の小市民的管理者会がはじまったのだと思っている。…しかし実際は人間の命が地球より重いということはありえない。命を大事にすることは良いことだが、それへの過大評価は人間の過保護とエゴイズムとを生み出す。そういった優しいエゴイズムが子供の身体や心をいかにスポイルしていったかということを私たちはいやというほど知っている。それと同じように死や死体という人間の負の姿がさもタブーでもあるかのように人々の目から隠蔽されていく。皮肉なものだな。私たちはそのようにして生命の過大評価のあまり生命や死から遠ざけられ、生きているという実感を失いつつある。そして、ちょうど両親から過剰な期待と日ごと受けた少子化社会の子供が“自分の大事さ”にいらだつように、現代を生きる人間はおしなべてそのようないらだちを体内に宿しているような気がするな。——p125

 命の過大評価、こういう考え方をしたことがなかった。今の日本人は命に対して過大評価している、という意見はとてもフェアな感じを受けた。これまでの価値観が少し変化した。自分の命をある程度客観的に見れるようになったような気がする。

 死体というのは流されて一旦川底に触れたものは浮き上がるんだ。しかし、底に触れなかったものは浮かばない。水の中を潜ったまま漂い、そのまま流れていく。浮かばれないって言葉があるが、不憫だな。——p136

 人間の心もきっとこんな感じだろう。そんな気がする。

 p140〜 犬の話

 こういう経験をしてみたい

 p150〜 チベットの僧の話。「テレビをすばらしいマンダラだ」
 ……砂というものは、時とところを定めることなく、移ろい、風紋のような形を築いてはまた消え、また人知れずどこかに姿を現す。そしてまたそれも一瞬の幻影(マーヤ)のように消え去る。それは物質であって物質ではない。そのマーヤである砂によってマンダラが描かれることに意味があるんだ。極彩色の色によって砂の楼閣が現れる。生命がそこに、世界がそこに立ち現れる。しかしそれはすみやかに消えて行く。
 その儀式はこの現実の真の姿マーヤであるということをも示している。この世はあの世であると。色即是空であると。
 彼らがテレビのことをマンダラだと言い、あなたたちはすでに解脱しているではないかと言ったとき、それを聞いた日本人はあっけにとられていた。煩悩の発生装置のようなテレビが神器だというのだからね。…
 彼らがそこに見たものは砂マンダラよりもいっそう空虚であり、無常観の吹き抜けたマンダラだったんだ。一人の僧は尋ねた。あなたたちは、生まれたときからずっとこのマンダラを見て育っているのかと。そうだと答えたら、こう言った。
 それでは二十歳くらいになるまでにはもう修行はできているはずだ。後は世界というものがそのようなもので成り立っていることを実際の世界で学ぶことですね、と。——p153

 こういう虚無的な見方、考え方は現実世界をうまく表現していると思う。けれど、すべてが幻影(マーヤ)だと決めつける必要はないと思う。とりあえず今は、一つの見方として自分の心の中にとどめておこうと思う。それにしても、テレビが神器になりえるところが面白い。

 宗教面においてもインドでは昔から人間の中には七つの意識が重層的に重なり合っていると語り継がれている。普段人間はそのもっとも表層にある三つの意識、つまりムラナーダ(欲望)スワジナーダ(闘争心)マニプラ(自己愛)といった“熱の意識”で自分の深層意識を包み隠しているが、その熱を燃え尽きさせるか他の意識に転化させることによって本当の自分が立ち現れてくると。——p158

 “耳の瞑想”
 『……今あなたがいる場所には無数の音や声がひしめいている。その中の一番小さな音を捜しあてるがいい。そしてそれに耳を傾ける。そうすると意識が集中してくる。その小さな音が確かに聞こえるようになったら、それよりもさらにもっと小さな音を捜しあて、それに耳を傾けなさい。そしてそれがまた確かに聞こえるようになったら、それよりもさらにもっと小さな音を捜しあて、それに耳を傾ける。そのようにして、徐々に徐々に、沈黙の音を自らの元にたぐりよせるのだ。漁師が魚の入った網を手元にたぐりよせるように』——p161

 少し疑問に思ったんだけど、無音のときに聞こえるあのうるさい沈黙の音はどう捉えればいいんだろう?

 一般的に言って聖者たる者が髪を長くするのは、自分の身体をも自然の一部とみなし、草原に生える草や木のようにあるがままに放置しておくという、自然哲理のシンボルである。——p238

 より強力な向精神生薬摂取へのエスカレートとともに、その作用によって目の前に展開される意味の剥がれた世界に彼の感性が追いつかず、「私」と「世界」の間に亀裂が生じる。従って彼はその亀裂を妄想というもう一つの「意味」によって埋め合わせ、危機をしのぐことになる。これは一種の自己防衛本能が選びとる無意識の精神生理である。…この病理がさらに深まるとついに地獄の蓋が開く。その地獄とは折り重なる自我のそこに眠る深層意識(トラウマ)である。——p250

 p300〜 老僧の話。要約すると、中国の兵隊がやってきて寺の仏像を壊し始めたとき一人の若い僧が仏像を握りしめて決して離そうとしなかった。中国兵はその若い僧の右腕を切り落とし河に捨てた。切り落とされた腕は仏像を握りしめたまま流れていった。
 十年後、彼はどこにもない手の甲が南京虫に食われた痒くなったりするのを感じる。時には握りしめたままの仏像の凹凸や肌触りがはっきりとわかる。けれどはっとしてそこをみるとただ空虚があるばかり。そこに仏像がないことに失望し、その仏像を探しにいく旅に出ようとする。老僧は行く必要はないという。仏像はお前の失われた腕があった場所に実在している。お前がそれを感じたそのときに、その仏像は実在している。お前が失った物はただの鉄屑にすぎない。お前は肉体経験で持ってその精神と物質との関係を今教えられようとしている。ここに座りつづけ、その二つの関係の間にある謎を解くことがお前にとっての本当の旅になるだろう。

 これを読んで、俺の旅とは何だったんだろうと思った。この話で出てくる旅とは次元の違う話なのだろうか?それとも同じ旅を指しているんだろうか?

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電気のこと、図解雑学シリーズについて

 普段文系と理系と呼ばれている体系が、お互いに関係し合って1つの現象を表すことは面白いと思う。最近、電気関係の本を読んで以下の文章に出会った。

 コンピュータ特有の2進法の考え方は、ライプニッツに遡ります。17世紀後半、ライプニッツはニュートンとは独立して微積分を発見し、中国の易経(儒教の経典の1つ)の研究も行っていました。易経では、陰と陽のパターンを組み合わせて八卦をつくり、八卦と八卦を組み合わせた六十四卦で吉凶を占いますが、ライプニッツは2進数を考案した後、六十四卦を配列した先天図を見て、論理計算と論理言語構想を練ったようです。
 ——「図解雑学よくわかる電気のしくみ」 電気技術研究会 p.168

 コピュータの基礎が  世紀頃につくられた易経によってできたというのはとても興味深い。

[図解雑学] よくわかる電気のしくみ (図解雑学) [図解雑学] よくわかる電気のしくみ (図解雑学)

著者:電気技術研究会
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 もう一つ。

 原子(アトム)という概念は、ギリシャ時代の哲学者たちによって唱えられ、ローマの詩人ルクレティウスが詠んだ「物の本性について」という詩によって後世に伝えられたが、それが科学の対象として考えられるようになったのは、イギリスの物理学者ドルトンの功績を抜きしにては語れない。
 ——「図解雑学 電気・電子のしくみ」 桑原守二・三木 茂 p.60

 もともとの科学的な概念は哲学から始まったというのは知っていたけれど、それが詩として後世に伝えられたのは知らなかった。
 昔の人が「なぜ?」と考えてきたものを、現代科学で解き明かしているけれども、逆に科学を通して哲学的に「なぜ?」を問うのも面白いと思う。

 これらの本を読んで、知ってそうで意外と知らなかったことは、磁石にくっつくものは3種類だけということだ。僕の認識としては、アルミはくっつかないけど、たいていの金属にはくっつくんじゃないかな程度にしか考えていなかった。
 くっつくものは、鉄、ニッケル、コバルトのみ。103種類もある中で3種類しか磁性を持っていない。その原理がとても面白いと思った。気になる人は「図解雑学 電気・電子のしくみ」p.92〜97を読んでください。

図解雑学 電気・電子のしくみ→http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4816321578/nifty0b5-nif1-22/ref=nosim

 あと永久磁石の作り方も知らなかった。

 永久磁石の原料になる鉄を、赤くなるまで熱してやると、磁区の向きが自由になる。この状態の鉄を南北に揃えて置いてやると、磁区のN極がいっせいに北に向いて整列する。その後、鉄が冷えて固まると、磁区の向きは固定されて、永久磁石ができる。
 ——「図解雑学 電気・電子のしくみ」 桑原守二・三木 茂 p.96

 こんなに簡単にできるところが面白い。熱して置いておくだけで磁石になるなんて…

 ・図解雑学シリーズについて

 図解雑学シリーズは15のときから何度もお世話になっている。何もしらないはじめての分野のものを読むとき、まず図解雑学シリーズを探してはじめに読んだ。すぐ読めるしわかりやすい。
 最近は、オールカラーのものが出てるけれど、個人的には昔のタイプのものが好きだ。ページの左側に説明文があって、右に図で解説してある。その図にちょくちょくでてくるてきとーな絵が何とも言えない味を出している。表現も面白いし、全然違う分野の話がふっと入ってきたりして飽きない(たとえば、「図解雑学 電気・電子のしくみ」p.64の豆腐の落語の話など)。

 そもそもなぜ今、電気の本なんて読んでいるのかというと、移動カフェをするためには車の中に電力を具える必要があるし、直流を交流に変えるインバーターも必要になってくるし、予備バッテリーを積もうと思っているけれども、それがどれくらいの時間もつのか調べなくちゃいけないし…、とたくさん電気に関する知識が必要だったので、とりあえず簡単なことだけ知っておこうと思い読んでました。でもやっぱり読書は面白いですよね。たとえその知識が実用的じゃないにせよ、ふっと惹かれるものがある。磁石にくっつくものが3種類だろうが8種類だろうが、移動カフェの知識の足しにもならない。けれどそんなことは関係なく面白いし、興味深い。
 今日は、「これ面白い!と思った瞬間」の大切さを再確認した一日でした。

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ガストン・バシュラール「空と夢」

Book 空と夢―運動の想像力にかんする試論 (叢書・ウニベルシタス)

著者:ガストン・バシュラール
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《今でも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが、想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力なのだ。イメージの変化、イメージの思いがけない結合がなければ、想像力はなく、想像するという行為はない。もしも目の前にある或るイメージがそこにないイメージを考えさせなければ、…想像力はない。…人間の心象においては、想像力はまさに開示の経験であり、新しさの経験に他ならぬ。…ブレイクが明言している通り「想像力は状態ではなく人間の存在そのものである。」》

 

この文章は大江健三郎の「新しい文学のために」という本で見つけたものです。

Book 新しい文学のために (岩波新書)

著者:大江 健三郎
販売元:岩波書店
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「印度放浪」藤原新也

印度放浪 (朝日文庫) Book 印度放浪 (朝日文庫)

著者:藤原 新也
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 『歩むごとに、ぼく自身と、ぼく自身の習ってきた世界の虚偽が見えた。』
——「印度放浪」藤原新也 p.1

 この一番はじめの一行が痛快だった。今まで読んできた本の中で一番素敵な書き出しだった。

 『出会う人々、街、荒れ地の間を、ぼくは、環境に即した柔軟なヒレをもった魚のように、泳ぎ回ることができた。人間一個のたかの知れた力で肩肘を張って歩くより、すべての矛盾に順応することができる、哀れな体こそがこの土地では要求されるのだろう。』
p——「印度放浪」藤原新也 p.292

 この文章は読むたびに旅に出た気持ちになる心地よい文章だ。

 藤原新也の文章は(上記のような文章を除き)、死に関する文章だけ輝いて見える。そこだけ何か力を持っているように感じるのだ。おそらく彼自身の中に死が何か特別なもの、重要なものとして存在しているのだろう。

 特にp.298,299の赤ん坊の死がとても印象的だった。

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五木寛之「青年は荒野をめざす」

Book 青年は荒野をめざす (文春文庫)

著者:五木 寛之
販売元:文芸春秋
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 『僕はジャズが好きなんです。でも、ジャズは人間だと言われました。どんな音を発見するか、どんなフレーズを創り出すかは、演奏者の内面の問題だとね。僕には、自分にそれが欠けているように思えるんです。本当に人生の悩みを悩んだ事のない人間が、どうして本当のジャズをやれるだろうと考えて、それで行きづまっていました。あなたは僕よりうんと本当の音楽家だと思います。…僕は知りたいんです。』
  ——五木寛之 「青年は荒野をめざす」 p152

その答えとして

『「音楽は人間だ。だが、それは素朴なヒューマニズムの理論では割り切れないものさ。音楽というやつは、もっと何か恐ろしい所にあるものだ。良い人間が良い音楽を演奏できるというものじゃないだろう。苦悩の大きさが、イコール、音楽の深さにならない。ジャズだってそうだ。卑劣な人殺しにだって見事なブルースがやれんとは限らん。汚い手で感動的な演奏が成り立つ事もあり得る。音楽とは、そんな残酷な、非人間的なものなんだ」』
 ——五木寛之 「青年は荒野をめざす」 p152

 僕も昔は「悩んだことのない人間がやる音楽なんて…」と考えていたけれど、やっぱり実際はそうじゃなかった。上に書いてある通り、どんな前科があったとしても人を感動させる音楽ができる。この本はこの後に、ショッキングなお話が出てくるんだけれど、ここでは伏せておきます。とにかく、この本は音楽とは何なのかということを考えさせられる。おそらく、音楽に関わる人の数だけ、それに対しての見方、解釈がある。

 旅中にあったミュージシャンは、僕に「音楽というものは小さい子供の鼻歌のようなものだ」と言った。理論や経験ではなく、自分の内側からすっと出てくるもの。いつの間にか口ずさんでいるもの。それが本当の音楽だと。「小さい頃、わけもなく歌を即興で作って口ずさんだりしたでしょ?」と言われて思い当たるふしがあった。小さい頃僕は“黄色いボールの歌”という歌を作ったことがある。保育園のときだったと思う。どんな曲だったかは覚えていないが、歌を作ったことだけは覚えている。

 ちなみに僕は音楽は「楽しんだもの勝ち」だと思う。楽しめばそれでOK。よくCDのレビューに厳しい評価や批判を書き込む人がいるけれど、その人たちは全然楽しめていない。楽しめない人は批評しないで、楽しめる音楽を聴けばいいと思う(もちろん好き嫌いは別問題として)。

 音楽は楽しいものだ。

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丸谷才一「思考のレッスン」

思考のレッスン (文春文庫) Book 思考のレッスン (文春文庫)

著者:丸谷 才一
販売元:文藝春秋
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 「思考のレッスン」 丸谷才一

 下記の文章は、丸谷才一の「思考のレッスン」という本を読んでメモったものです。普段、本を読んだときはこんな感じでメモっています。今日はその一部を公開してみました。読みにくい所が多々あると思いますが、あくまでこれはただのメモなので、隣りの人のノートをちょっと盗み見た、という感じでちらちら見てもらえればと思います。

 『アマチュアリズム』
 イギリスには、アマチュアリズムの伝統というものがあるんです。もっともアマチュアといっても、日本の素人とは全く別の意味なんですよ。
 一番の典型が、シャーロック・ホームズなんです。シャーロック・ホームズはたいへんな名探偵であり、警視総監もかなわない。でも、それによって食べているわけじゃなくて、一流の知識人が、趣味として探偵をしているに過ぎない。
 こう云った態度がイギリス人の知的行動の基本にあるわけですね。(p50)

 いつも自分が思っていた「音楽を職業にしたくない」というのは、まさにこのアマチュアリズムそのものだった。

 『無駄な議論』
 イデオロギー中心的現代日本批判以外の視点がいかに重要であって、それによって現在われわれが生きている条件が新しい光を当てられるということを知ったんですね。
 でも、いまの日本には、俗論がはびこってますね。…
 たとえば
 ・動機論的忖度…「そういうことを考えるのは、きみがプチブル的意識から抜けていないからだ」といった論法。
 ・道徳論的挑発…「誰それがそんなことを言うのは、倫理的に許せない」などといって、それを論旨の主眼にする論法。
 ・世代論的なものの言い方…「結局、それが昭和一ケタ(明治生まれ、大正生まれ…)の限界なんだよ」と言った無意味な決めつけ。
 ・陰謀史観…「すべてはCIA(あるいはKGBの、モサドの…)陰謀だ」、そう言ってしまえば、歴史を考えるということは全部無意味になってしまう。(p56、57)

 こういう風に何も生み出さない議論を整理しておくと、無駄な議論で時間を潰すことは回避できるだろう。それにしても、よく聞く言葉ばかりだ。

イデオロギー  …歴史的・社会的に制約され偏った観念形態の意。
忖度(そんたく)…他人の心中をおしはかること。

 『自己と他者との関係のため』
 バフチンを読んで思い出したのは、菊池寛の純文学と大衆文学の説でした。菊池寛は、「自分のために書くのが純文学で、他人のために書くのが大衆文学だ」と言ったんですね。自己と他者というものを分けて考えるのがいわゆる在来の日本文学の考え方だった。
ところがバフチンは、自己と他者とは相互関連的なものだと考える。
 僕は、「われわれのために書く」というのは、「自己と他者との関係のために書く」というのが、文学の本当のあり方だと思うわけです。(p87、88)

 自己のためだけではなく、他人のためだけでもなく、自己と他者の関係のため。関係のためというのが今の僕ではいまいちはっきりしないけれども、何となく肯定できる感じを受けた。

 『批評とは』
 小林秀雄さんが「批評は他人をダシに使って自己を語るんだ」と言っていたことがあった。(p88)

 『古典主義』
 山崎さんという人は、文学青年のように、荒れたり、凄んだりということがない。ロマンチックじゃない。ジイドは「古典主義は抑制されたロマンチシズムである」と言っていますが、そう言う意味で古典主義的ですね。それから陰惨な叙情性で泣き落としをかけるという趣味がない。だから、話していて楽しいんです。(p97)

 陰惨な叙情性で泣き落としをかける、というところで昔はやったセカチューや携帯小説の話を思い出した。最近のベストセラーはそう言うのが多いような気がする。

 陰惨…陰気でむごたらしいさま
 抒情…自分の感情を述べ表すこと

 『本の読み方のコツ』
 本の読み方の最大のコツは、そのほんをおもしろがること、その快楽をエネルギーにして進むこと。これですね。
 誰のセリフだったかなぁ、「読書は人間がベッドで行うふたつの快楽のうちの一つである」という言葉があります。…
 逆に言えば、「おもしろくない本は読むな」。誰かから勧められた本でも、読みはじめておもしろくないと思ったら、そこで止める。(p103)

 村上春樹も同じようなことをどこかで書いていた気がする。

 『読書の効用』
 読書の効用は三つあると思うんです。
第一は、情報を得られるということ。
三浦雅士さんだったかな、「本を読むことはどうしてこんなにおもしろいんだろうか。その理由は明白で、世界は自分の知らないことで充ちているからだ」と言ったけれども、これまで知らなかった世界を教わるのは楽しいことですね。…
二番目の効用というのは、本を読むことによって考えを学ぶことができる。
(省略。吉野源三郎が書いた『君たちはどう生きるか』という本の話。そのなかで)ニュートンのリンゴから始まって、引力について考える所がありましたね。リンゴが二十メートルの所にあったらどうなるか。やっぱり落ちてくる。二百メートルでも同じだ。だったら、どんどん高くして月の高さにリンゴがあったら落ちてくるだろうか?じゃあ、なぜ月は落ちてこないのか?これは叔父さんがしゃべることだけれど、読みながら、思考の道筋を一緒にたどっていくことができるんですね。…
 次にものを考える人が出てきておもしろいと思ったのは、ジョイスの『若い芸術家の肖像』でした。ジョイス自身と重なる主人公のスティーヴン・ディーダラスは、子供のときから青年期の初めまで、ものを考えづめに考える。宇宙から始まって自分自身についてまで、あるいは「美とは何か」といったことをしょっちゅう考えている。それがとてもおもしろかった記憶があります。…
さて、読書の三番目の効用は、書き方を学ぶということでしょう。本を読んでおもしろいと思ったら、それがどのような書き方をされているから感銘を受けたのか考える。これも大事ですね。(p105〜110)

 『一冊の本の意味、本の世界』
 たくさんの本の中にあって初めて、一冊の本は意味があるのだ、というようなことを書いていらした。
 僕は、その通りだと思うんですね。孤立した一冊の本ではなく「本の世界」というものと向き合う、その中に入る。本との付き合いは、これが大切なんです。(p114)

 『入門書の選び方』
 以前僕は、入門書の選び方について書いたことがあります。そのとき、言ったのは、「偉い学者の書いた薄い本を読め」ということでした。例にあげたのは、萩生徂徠の『経子要覧』、あるいはコーンフィールドの『ソクラテスの以前以後』(岩波文庫)。(p118)

 『言葉のストライクゾーン』
 日本の場合、外国と比べて言葉の使い方がさらに曖昧なんですね。「言葉のストライクゾーン」なんて言い方を僕はしますが、それが外国語の場合の方がずっとはっきりしている。日本人の場合、ストライクゾーンが非常に朦朧としていて、投げる投手ごとに千差万別である、そんな傾向があるような気がします。
 それだからなおさらですが、本を読む場合、言葉の使い方に注意しながら読むことが大切です。(p126)

 『本は忙しい時に読む』
 まとまった時間があったら本を読むなということです。本は原則として忙しい時に読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう。(p137)

 『二つの主題をぶつける』
 いつだったか河上徹太郎さんが、「一つの主題では評論は書けない、二つの主題をぶつけると評論が書ける」と書いてらした。…
 何かものを考える場合、常に複数の主題を衝突させて、それによって考えていくとうまくいく、あるいは考えが深まることがよくある。…当面の対象と、自分のホーム・グラウンドとをぶつけることによって、新しいものの見方、発想が出てくるんじゃないかという気がします。(p149)

 『古今を読むなら…』
 たとえば『古今』を読むなら、窪田空穂の本で読むのが僕は一難好きです。岩波の「日本古典文学大系」版の『古今』は、どうも読みにくい。(p158)

 『漱石全集』
 漱石は、主として、子供の時に読んだ岩波の『決定版漱石全集』を家から取り寄せて読んでいます。(p166)

 『東京のタクシー』
 何かに逢着したとき、大事なのは、まず頭を動かすこと。ある程度の時間をかけて自分一人でじーっと考える。考えるにあたって必要な本は、それまでにかなり読んでるはずです。頭の中にある今までの資産を使って考える。それを僕は怠った。これじゃあまるで東京のタクシーの運転手だなと思った。
 東京のタクシーの運転手は、車に乗ると、まずメーターを倒してダーッと車を出してから「どこへ行きますか」って聞くじゃない(笑い) (p176)

 この東京のタクシーの話は、愛媛で聞いたハコと中身の話に似ている。たいていの人はハコばかり欲しがって、中身を考えていない。

 逢着(ほうちゃく)…でくわすこと。

 『謎を持つこと』
 一番大事なのは、謎を自分の心に銘記して、常になぜだろう、どうしてだろうと思い続ける。思い続けて謎を明確化、意識化することです。そのためには、自分の中に他者を作って、そのもう一人の自分に謎を突きつけていく必要があります。
 普通の意味で他者と言えば、世間のことですね。ところが、世間を相手にしてはならない。なぜかと言えば、世間は謎を意識しないからです。そんなことにいちいちこだわっていると成り立って行かないから、もっぱら流行に従って暮らす。それが世間というものです。(p181)

 
 『口語文の歴史』
 現代日本語の文体は、現代日本人が思考するのにふさわしいだけの成熟にまだ達していない。何しろ口語文が始まってから、ようやく百年経ったかどうかでしょう。私たちは、まだ文章として十分な能力をつけていない文体で、ものを考えることを強制されていると言ってもいい。ですから、なおさら書き方の問題に触れないと、考え方の問題を論じることができないわけです。(p226)

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著者:ジェイムズ ジョイス
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ソクラテス以前以後 (岩波文庫) Book ソクラテス以前以後 (岩波文庫)

著者:山田 道夫,F.M.コーンフォード
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小此木啓吾「家庭のない家族の時代」

小此木啓吾「家庭のない家族の時代」  [no.444]

ここで言う山アラシジレンマとは、人と人の間のお互いの心理的距離が近くなればなるほど、お互いに傷つけ合いが深刻になるという、人間関係のジレンマをいう。…
 「ある冬の朝、寒さに凍えた山アラシのカップルが、お互いを暖め合おうと近づいたが、彼らは近づけば近づくほど自分たちのとげでお互いを傷つけてしまう。そこで山アラシは、近づいたり離れたりを繰り返したあげく適当に暖かく、しかもあまりお互いを傷つけないですむ、ちょうど良い距離を見つけ出した」
 ——小此木啓吾「家庭のない家族の時代」  p.50

 お互いの心理的距離が近くなるほど、傷つけてしまう。この文章を読んだ時、うまく表現するなーと思った。
「ちょうど良い距離」を見つけるまで、人間は傷つけ合ってしまう。その時期を乗り越えなくてはならない。

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家庭のない家族の時代 家庭のない家族の時代

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ジャック・ロンドン「白い牙」

ジャック・ロンドン 「白い牙」  [no.474]

「もし子オオカミが人間のような考え方をしたら、生命を貪欲な食欲だと言い、世界を、多数の食欲がうろつきまわり、追うか追われるか、狩るか狩られるか、食うか食われるかする暴力と無秩序でめちゃくちゃに混乱し、大食と殺戮で混沌としている、慈悲も計画も目的もない偶然に支配されている所だと言ったであろう。」
———ジャック・ロンドン 「白い牙」 p.106

 自然界をこういう見方でとらえたことは一度もなかった。人間から見ると自然と自然の中で生きている動物はどことなく“善”のイメージがあり、利己的な人間の行いをなんとなく“悪”のイメージで見ていたところがある。
 人間的な思考とオオカミの目で見た世界は、人間界と自然界の違いを、勝手な善悪の思い込みなしに明確に表現していると思った。

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Book 白い牙 (新潮文庫 (ロ-3-1))

著者:白石 佑光,ジャック・ロンドン

販売元:新潮社
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星野道夫「旅をする木」

星野道夫「旅をする木」  [no.457]

「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕日を一人で見ていたとするだろう。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんな風に伝えるかって」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いてみせるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わっていくことだって……その夕陽を見て、感動して、自分が変わっていくことだと思うって」

———星野道夫「旅をする木」 p.120

 旅でたくさん経験して、自分が変わっていくというやり方で、それらを誰かに伝えられたらどんなに素敵だろう。そうなりたいと強く思った。

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旅をする木 (文春文庫) Book 旅をする木 (文春文庫)

著者:星野 道夫

販売元:文藝春秋
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新しいカテゴリーを追加します

本や聞いた話で心に残った言葉を書き残していきます。
昔[sheep as metaphor]でやっていたのと同じことなんだけど、こっちでやった方が更新しやすいのでこっちに移動させます(後でsheepの文章も統合させます)。

一行目は、 著者「本のタイトル」  [ナンバー]。ナンバーは何冊目に読んだかということを表しています。
その後、本の引用、または聞いた話を書いて、最後に少し感じたことを書く、というスタイルでやります。

最後の感想は、書き直すことが多々あると思います。

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