f1さんに勧められた藤原新也の「黄泉の犬」読めました。ぴーすけをいじるのに忙しく、あまり本が読めなくて結構時間がかかってしまった……。いつものように切り抜いた文章と適当に思ったことを書きます。メモ程度なので適当に読んでください。(まとめようとするんだけどいつも後回し…)
藤原新也の書き始めはいつも気に入ってしまう。
世界は幻影(マーヤ)だという考え方がある。
インドの、ある聖者が唱えた、
過激な世界観である。
現世はもとより来世も、
聖も俗も、善も悪も、
悟りも迷妄も、
そして解脱による真我の光も、
それは幻影(マーヤ)であり、一雫の夢。
地球が燃え尽きたところから始まるように、
あらゆる価値はあらかじめ燃え尽きた
はいの上に咲く徒花(あだはな)にすぎない。
それゆえに世界はこよなく、
癒らかなのです。
私の心は、
この真実(サテイアン)の大崩壊の時代において、
その幻影説(マーヤヤーナ)にそっと寄りそう。
そして幻影(マーヤ)の海に釣り糸を垂れ、
色とりどりの魚(マーヤ)に戯れる。
しかし私がインドと日本の間で身の振りかたを迷っていた頃の経験によれば、現世か現世否定かという二者択一的な選択は、そのどちらもがよりよく生きることにはならない。
なぜならおそらく覚醒とは幻影の半身に他ならないからだ。その二つを切り離すことはできない。ちょうど光が闇を在らしめ、やみが光を在らしめているように、不憫なことに幻影とは覚醒の、覚醒とは幻影の、互いのよき伴侶であるとさえいえる。たとえばインドにおける聖者(サドゥ)たちは幻影(俗)と覚醒(聖)の二つの岸にかかる命綱を渡り歩きながら、正気というものを保っていたように思われるのだ。——p15
昔、「つまるところ小説(物語)はフィクションだから、もしかすると自分の一生をかける価値がないのではないか」と悩んだことがある。小説はある種の慰めにはなるけれどもそれ以上ではないのかもしれない、と。けれども、本を読んでいくうちに、というより生活をしていくうちに、自分の生活の中で読書が思っている以上に重要な位置にあることがわかってきた。結局俺が生きていく上で読書は不可欠という結論に至ったんだけれど、上記の文章を読んで昔よくこんなこと考えていたなぁと思い出した。覚醒と幻影を現実世界と精神世界と置き換えることができると思う。難しいことに、その逆もいえると思う。覚醒と幻影は精神世界と現実世界と置き換えることができる、と。もしその半身が入れ替わろうとも、戸惑うことのないよう、その全体を見れる視野と、その事実を受け入れることのできる寛容な心が欲しい。
青年はときに理屈ではなく、動物のように全身で何かを察知し、それが自らの行動に繋がるものだ。理屈というものは肉体の熱狂が冷めた後からやってくるにすぎない。——p19
また、見落としがちなことだが、ときにはこのような田舎の農村や漁村地帯における工業の進出がある別の意味を兼ね備えていたことを忘れてはならない。前近代の日本の基幹産業である農業や漁業システムの中では地主と小作人、網元と使用人の関係は不変である。小作人や使用人はその年季や技量に応じて生活が豊かになるわけではない。しかし能率主義の近代の合理システムはその長年の因習を打ち破ったのである。そこではすべてのものに平等の機会が与えられた。能率を上げ技量を発揮すれば、それに応じた見返りができた。田舎における工場は土地や船を所有しない貧困層にとって暗い前近代の管理システムから解き放たれる解放区として輝きを放っていたのである。いうならばそれは新しい社会の体系であり、価値であった。——p29
キリスト教のみならず、ユダヤ教、そしてイスラム教も、つまり砂漠に発祥する宗教というものはおしなべて規範なき自然の中における人間自我の肥大、さらには誇大妄想という精神病理を秘めているものである。それは自我を自然の中にとけ込ませることに真我(解脱)を見る東洋の宗教とは逆の精神のベクトルである。ヨーロッパを訪れてみるといい。私たちは彼らがユーラシア大陸の自然を完璧なまでに制圧し、彼らが理想とする人間の自我様式に沿った都市を打ち立てているのを見る。その都市の中では人間のしもべである犬や馬はよく調教され、待ちを歩くとマロニエの木の植え具合、枝の曲がり具合までまるでギリシャ時代に人間の理想のプロポーションを作ったのと同じようによく調整されている。私たちはそのようなものをかりに西洋の美として憧憬してきた。しかしものの見方を変えればそれは人間の自我の限りなく肥大した果ての誇大妄想の産物ともいえる。
ただ彼らはそのような誇大妄想の患者であるばかりではなく、自らの治癒者でもあった。彼らの宗教は誇大妄想的でありながら、他方、禁欲によって人間の自我の肥大を止揚すると言った両義性を持っている。——p37
はじめこの文章を読んで少し反発を感じた。たとえそういう傾向があったとしても、ヨーロッパのすべてを誇大妄想的というのは言い過ぎなんじゃないかな?どちらにせよ俺はヨーロッパに行ったことがないのでこれ以上の言及はやめておこう。
どんなぶざまな顔でも自分の生んだ父親の顔を穴の開くまでしっかり見てからものをいえと言いたい。そこまでぶざまになり下がった父親とは一体何だったのか。そこには父親が自分の身を何かにやつして暗黙のうちに語りかけている言葉がきっとあるはずだ。今の青年にはそういった負の状態の人間からの意味を読み取る寛容と強さというものが欠けていると思う。——p89
この文章は正直腹が立ったけれど、これは個人的な話なので避けておく。
それにこのことは誤解をまねく恐れがあるので注意深く語らねばならないが、私が彼にあってもようなと思ったのはインタビューで謝礼を払うと言ったことにもよる。…日本人というものはプロでもこのことを誤解している人がいて困るのだが、金というものは汚いものだと思っている馬鹿がいる。原稿やインタビューの注文用紙にくどくどと、どうでもいいようないろんな理屈が書かれていて、最後に肝心の原稿料はとくると、こんなのに限って金のことがさも下劣なことでもあるかのように全く触れていないというものがだいたい三割くらいはある。断っておくが労働に見合う適正なものであれば金というものは塩(サラリー)と同じように神聖なものである。——p90
お金が神聖な物であるという考え方がとても新鮮だった。最近商売をはじめようと思っていろんな人にそのことを話すんだけど、そのときについつい「儲ける気はない」と言ってしまう。そしていつも「それは商売じゃない。学生の甘っちょろい夢だ」と突っ込まれるんだけれど、この儲ける気がないというのはおそらくお金というものを誤解しているせいだろう。これからその世界の厳しさと、お金の意味をもう少し学んでいけると思う。
「火って、自然ですよね。まだるっこいというか、かったるいんです。自然というものと、僕はそういうものとは無縁に育ってきたから。だから歳食った大人が自然だ自然だって、自然が万能だっていう言い方するとカッとするというか、それじゃ自然を知らないオレらは生存の基盤のないクラゲみたいなものなのか、って言いたくなるんです」
「……そう思う」
私は静かに言った。
青年はギョッとしたようにこちらを睨んだ。
「この日本の都市に生まれた子供って皆、クラゲだよ。いや正確にはそうじゃない。自然を知っているはずの世代が子供たちから自然を奪い取り、クラゲに仕立て上げたということだ。…」——p116、117
誰もが普通に行き来するような場所で薪の上にのせられた人間がどんどん燃やされる。こんなことは日本では、いや世界のどの国でも見られない。最初は布にくるまれているけどそのうちに布が燃え、裸体が露出する。火がそれをなめまわし、皮膚が焼けてしばらくすると肉の内部に火熱が充満する。人間の体の九十パーセントが水だからね。やがて人間は沸騰しはじめるんだ。裸体は膨張し、ジュウジュウ脂肪が滾り水分の沸騰する音がしはじめる。膀胱にたまっている小便がピュッと性器から吹き出したり、空をつかむように五本の指が動いたりまるで生きている人間みたいだ。焼き方が悪いとスルメみたいに起き上がってくるんで、材木で重しをしたり、頭の方はなかなか火が通らないから太い竹棒でぶち割ったりする。真っ白い脳しょうが飛び散るとそれに火が点いて花火みたいに当たりに散る。野良犬が待ってましたとばかりにウォンウォン喧嘩しながらそれを奪い合う。脳味噌って美味しいんだな。死体焼き職人は、そんなのはいつものことだから犬なんかにかまっていない。そればかりか焼け残った黒こげの足なんかをポンと蹴ったりして犬にやるのもいる。それに臭いも強烈だ。風向きが変わると煙がこちらにやってきて体を包み込む。肉や骨の焼けた強烈な臭いが鼻孔になだれこむ。スルメの焼く臭いとそっくりだった。——p124
死体を焼くところを実際に見てみたいと強く思った。
はじめてそんな光景を目のあたりにしたとき私は本当にこんなことってあっていいのかなって思ったんだ。こんなに何もかも丸見えになってもいいのかなって。それまで私が育った日本では人間というものはもっと後生大事なものだった。人間の命は地球より重いって言葉知ってるだろ。あれは日本赤軍によるダッカ・ハイジャック事件の際、政府が彼らの要求をのんで服役中のメンバーを解放したときに総理の福田赳夫が言った言葉だね。日本人は妙にあの言葉に納得したものだ。私はあの頃から日本の小市民的管理者会がはじまったのだと思っている。…しかし実際は人間の命が地球より重いということはありえない。命を大事にすることは良いことだが、それへの過大評価は人間の過保護とエゴイズムとを生み出す。そういった優しいエゴイズムが子供の身体や心をいかにスポイルしていったかということを私たちはいやというほど知っている。それと同じように死や死体という人間の負の姿がさもタブーでもあるかのように人々の目から隠蔽されていく。皮肉なものだな。私たちはそのようにして生命の過大評価のあまり生命や死から遠ざけられ、生きているという実感を失いつつある。そして、ちょうど両親から過剰な期待と日ごと受けた少子化社会の子供が“自分の大事さ”にいらだつように、現代を生きる人間はおしなべてそのようないらだちを体内に宿しているような気がするな。——p125
命の過大評価、こういう考え方をしたことがなかった。今の日本人は命に対して過大評価している、という意見はとてもフェアな感じを受けた。これまでの価値観が少し変化した。自分の命をある程度客観的に見れるようになったような気がする。
死体というのは流されて一旦川底に触れたものは浮き上がるんだ。しかし、底に触れなかったものは浮かばない。水の中を潜ったまま漂い、そのまま流れていく。浮かばれないって言葉があるが、不憫だな。——p136
人間の心もきっとこんな感じだろう。そんな気がする。
p140〜 犬の話
こういう経験をしてみたい
p150〜 チベットの僧の話。「テレビをすばらしいマンダラだ」
……砂というものは、時とところを定めることなく、移ろい、風紋のような形を築いてはまた消え、また人知れずどこかに姿を現す。そしてまたそれも一瞬の幻影(マーヤ)のように消え去る。それは物質であって物質ではない。そのマーヤである砂によってマンダラが描かれることに意味があるんだ。極彩色の色によって砂の楼閣が現れる。生命がそこに、世界がそこに立ち現れる。しかしそれはすみやかに消えて行く。
その儀式はこの現実の真の姿マーヤであるということをも示している。この世はあの世であると。色即是空であると。
彼らがテレビのことをマンダラだと言い、あなたたちはすでに解脱しているではないかと言ったとき、それを聞いた日本人はあっけにとられていた。煩悩の発生装置のようなテレビが神器だというのだからね。…
彼らがそこに見たものは砂マンダラよりもいっそう空虚であり、無常観の吹き抜けたマンダラだったんだ。一人の僧は尋ねた。あなたたちは、生まれたときからずっとこのマンダラを見て育っているのかと。そうだと答えたら、こう言った。
それでは二十歳くらいになるまでにはもう修行はできているはずだ。後は世界というものがそのようなもので成り立っていることを実際の世界で学ぶことですね、と。——p153
こういう虚無的な見方、考え方は現実世界をうまく表現していると思う。けれど、すべてが幻影(マーヤ)だと決めつける必要はないと思う。とりあえず今は、一つの見方として自分の心の中にとどめておこうと思う。それにしても、テレビが神器になりえるところが面白い。
宗教面においてもインドでは昔から人間の中には七つの意識が重層的に重なり合っていると語り継がれている。普段人間はそのもっとも表層にある三つの意識、つまりムラナーダ(欲望)スワジナーダ(闘争心)マニプラ(自己愛)といった“熱の意識”で自分の深層意識を包み隠しているが、その熱を燃え尽きさせるか他の意識に転化させることによって本当の自分が立ち現れてくると。——p158
“耳の瞑想”
『……今あなたがいる場所には無数の音や声がひしめいている。その中の一番小さな音を捜しあてるがいい。そしてそれに耳を傾ける。そうすると意識が集中してくる。その小さな音が確かに聞こえるようになったら、それよりもさらにもっと小さな音を捜しあて、それに耳を傾けなさい。そしてそれがまた確かに聞こえるようになったら、それよりもさらにもっと小さな音を捜しあて、それに耳を傾ける。そのようにして、徐々に徐々に、沈黙の音を自らの元にたぐりよせるのだ。漁師が魚の入った網を手元にたぐりよせるように』——p161
少し疑問に思ったんだけど、無音のときに聞こえるあのうるさい沈黙の音はどう捉えればいいんだろう?
一般的に言って聖者たる者が髪を長くするのは、自分の身体をも自然の一部とみなし、草原に生える草や木のようにあるがままに放置しておくという、自然哲理のシンボルである。——p238
より強力な向精神生薬摂取へのエスカレートとともに、その作用によって目の前に展開される意味の剥がれた世界に彼の感性が追いつかず、「私」と「世界」の間に亀裂が生じる。従って彼はその亀裂を妄想というもう一つの「意味」によって埋め合わせ、危機をしのぐことになる。これは一種の自己防衛本能が選びとる無意識の精神生理である。…この病理がさらに深まるとついに地獄の蓋が開く。その地獄とは折り重なる自我のそこに眠る深層意識(トラウマ)である。——p250
p300〜 老僧の話。要約すると、中国の兵隊がやってきて寺の仏像を壊し始めたとき一人の若い僧が仏像を握りしめて決して離そうとしなかった。中国兵はその若い僧の右腕を切り落とし河に捨てた。切り落とされた腕は仏像を握りしめたまま流れていった。
十年後、彼はどこにもない手の甲が南京虫に食われた痒くなったりするのを感じる。時には握りしめたままの仏像の凹凸や肌触りがはっきりとわかる。けれどはっとしてそこをみるとただ空虚があるばかり。そこに仏像がないことに失望し、その仏像を探しにいく旅に出ようとする。老僧は行く必要はないという。仏像はお前の失われた腕があった場所に実在している。お前がそれを感じたそのときに、その仏像は実在している。お前が失った物はただの鉄屑にすぎない。お前は肉体経験で持ってその精神と物質との関係を今教えられようとしている。ここに座りつづけ、その二つの関係の間にある謎を解くことがお前にとっての本当の旅になるだろう。
これを読んで、俺の旅とは何だったんだろうと思った。この話で出てくる旅とは次元の違う話なのだろうか?それとも同じ旅を指しているんだろうか?
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